「指揮芸術について」より ヴァン・クライバーン 2

ヴァンは3番目か4番目に撮影しました。背の高い青年がいかにも緊張した顔でピアノに近づき、愛想よくわたしとオーケストラに挨拶しました。ピアノの前に座ると、ラフマニノフの協奏曲第三番の一部を弾き始めました。この時間を利用しようと思って、わたしは彼に質問を始めました。彼が協奏曲のそこやあそこをどう解釈しているか(というのも演奏者が事前に指揮者と面会することは許されませんでしたし、わたしたちには三次予選までに全部で半分のオーケストラとのリハーサルが控えていましたので)。
そこで普段は絶えず序曲を奏でたりおしゃべりをするオーケストラのざわめきが止まったのです。ヴァンはほぼ全て協奏曲を弾いてしまい、プロコフィエフのソナタ第六番、「アパッショナータ」の終わりと自作の小品を弾きました。ピアノはオーケストラメンバーの人だかりに囲まれました。「注文」が始まりました。彼も乗り気でほとんど全部に応じました。「メフィスト・ワルツ」、プロコフィエフの協奏曲第三番から断片、ラフマニノフの前奏曲等々。そのそばで彼はうっとりと微笑んで、注文者に答えては表情でここやそこの部分を強調したりしました。それが一時間以上も続いたのです。
ついに指揮者の声が響きました。「オーケストラ、持ち場に!」ここで奇跡が起きたのです! それに答えていっせいに叫びが上がったのです。「待ってください!」「最後まで弾かせてあげてください!」等々。オーケストラは晩のコンサートのあとで撮影に参加したので、すでに朝の4時頃になっていたことを考慮すれば、クライバーンにとってあれほど特徴的だった聴衆とのコンタクトをとる力量がいかなるものだったかすぐに認識していただけるでしょう。
一番はじめのことのあとで、演奏会ピアニストとして、どこにあの催眠的、どんな聞き手をも彼の熱心な崇拝者――「クライバーンニスト」に変えてしまう力の秘密があったのでしょうか?
わたしが思うに、少なくとも2つの理由があります。ひとつは、彼の音楽に対する態度が、演奏者が聴衆に語りかけるようなものであること。

「指揮芸術について」より ヴァン・クライバーン 1

すでに国際チャイコフスキー・コンクールの第一次予選後にはモスクワの「音楽家たち」のあいだで、審査員や聴衆に強烈な印象を呼び起こした一風変わったアメリカの若者について話が出ていました。私はその当時ソ連南方の演奏旅行の最中だったので、それを私に話したのはそこへ来たモスクワっ子の一人でした。
――話によると、コンクールの参加者の中にアメリカ人か誰かが現れ、わが国のピアニストにとってかなりのライバルになっている。聴衆はすぐに彼を拍手喝采するようになった。彼がチャイコフスキーを弾いたかどうかは知らないが、彼のモーツァルトは最高だったというものでした。

わたしがモスクワに戻ったのはもう二次予選があった後で、すぐにコンクールの夜間撮影に招待されました。そこでわたしはヴァン・クライバーンと知り合ったのです。

一度でもカラー映画の撮影に立ち会った人なら分かるでしょう、その進行がどれほどの苦痛と緩慢さをともなうかということが。ライトのセッティングと装置の配置のあいだ中、「対象」つまりこの場合はオーケストラとソリストですが、長い間話に興じたり新聞を読んだりしながら照明の下で座っていなければなりません。「カメラ」とようやく掛け声が響いたときには、全員がどれほど「恍惚状態」になっていることか。それでクリエイティブなコンディションにもっていったり、そのフィルム用にあらかじめ指定された小節をいくつかうまく演奏できるよう自らを叱咤するのは困難になってしまいます。

「コンドラシンは語る」より アルトゥール・ルービンシュテイン

わたしは今のアルトゥール・ルービンシュテインがどう演奏するかは知りません。彼は今では90歳以上になります。わたしたちは8年前に共演しました。彼は使徒の年齢です。自分の歳を隠しているという話です。いつでも――明晰な頭脳、多言語に通じ、美しいロシヤ語で話しました。異常なほどの熱中。音楽について夢中になって話し、そのまま座るなりすぐ弾き出します。まるで子供のような無遠慮さで。異常なほど明確なフレージング[楽句の区切り方。旋律をフレーズに切る区切り方。歌詞のある声楽曲よりも、演奏者の解釈によるところの大きい器楽曲において重要な課題となる]。彼がショパンを弾いたとき、わたしはショパンはこう演奏しなければならないことがよくわかりました。彼は楽譜に書いてあることを弾くだけで、それ以上のことはしません。偉大な音楽を成就しています。どんなおそくする、悪趣味なルバートも、退廃的な独断性もなく――すべてが明白で、気品に満ちている。わたしは彼がソヴィエト連邦に来たときに一緒にショパンを演奏しました。その後わたしたちはパリで会いました。その演奏会のことははっきり覚えています。それは1963年11月のある日で、コンサートの開始前にマネージャーが現れ、前日にケネディ大統領が暗殺されたと述べたのです。みな立ち上がりました。その後、わたしたちはブラームスの協奏曲第二番を演奏しました。

「コンドラシンは語る」より アイザック・スターン

そう、スターンがわたしに影響を与えたことは疑いありません。わたしたちは何度も会いましたが、わたしは彼がはじめて登場したときのことを覚えています。1956年に彼がやって来たときは、彼の伴奏をして[ソヴィエト]国立交響楽団と演奏しました。国立交響楽団は当時編成に問題があり、それに全体として、アンサンブルを上手く調えることがほとんど出来ませんでした。まったく酷い批評が「ソヴィエト音楽」に出て、国立交響楽団はメンデルスゾーンの協奏曲をソリストと一緒に指揮者なしで演奏しなければならなかったとか、かれらはずっと後ろに引っ込んでいたとかそんなことが言われました。これはわたしの落ち度だと思います。スターンはとても不満そうでした。わたしはそう感じたのです。彼はわたしには冷たく接しましたから。3年後にわたしたちはプラハで会いました。彼はそこで別の演奏会に出演して、一方私はプラハ・フィルハーモニーを指揮していました。彼は第二部にやって来ました。ラヴェルの「ラ・ヴァルス」です。彼は楽屋にやってきてわたしにキスしました。
「わたしにはあの時あなたを見抜けなかったということですね。これほどの指揮者だとは! これほど素晴らしく音楽を感じ取ってオーケストラとそれを実現するとは! 彼らはいつもスノッブで演奏したがらないってことをわたしも知っていますよ、、、」
つまり一挙に胸襟を開いたわけですね。それ以来わたしたちは大の親友です。わたしはイタリアやその他多くの国で時折彼に会いました。でも全体的に、彼はわたしの、自己形成に強い影響を与えました。多様なスタイル――様々な時代の、、、

「コンドラシンは語る」より ピアティゴルスキー

ラ:あなたはピアティゴルスキーとお会いになられたのですか?

コ:ええ、彼はわたしを自宅に招待してくれました。一緒に演奏したことはありませんが、ロサンゼルスで会いました。ロシヤ式の家です。みなロシヤ語で話しました。そこにはバイロン・ジャニスがいて――彼も面白いピアニストで比較的若い人ですが、夫人と一緒でした。因みに、彼の夫人はたしか40年代の映画スターであるゲイリー・クーパーの娘です。そして、ピアティゴルスキーと夫人、それにヤッシャ・ハイフェッツです。とても陰気な様子でした。わたしたちはおしゃべりをしていましたが、彼は一言も話しませんでした。

ラ:彼らはロシヤ語を話せるのですか?

コ:彼らはみな完全にロシヤ語を話せます。その後素っ気なく別れを告げて自分の豪華な「ロールスロイス」で帰っていきました。全体として、あまり気持ちの良い印象が残ったとは言えないですね。多分、性格なのでしょうが、付き合いやすい人ではありません。一方、ピアティゴルスキーは率直な、おそろしく面白い人で、ユーモアを交えてたくさん話しました。彼は70歳くらいです、、、 彼が晩年のエネスクと出会ったときのことを素晴らしく話してくれました。エネスクは脊髄性結核を病んでいました。ほとんど身をかがめるようにして歩いていて、つまり地面を見て頭を上げることも出来ないのです。ピアティゴルスキーは身長がおよそ2メートルあります。
「彼はわたしと話そうとしたけれど、わたしはどうすればいいかわからなかった――とピアティゴルスキーは話しました――かがむと、気を悪くするだろう、ひざまずけば、わたしの顔は見れるだろう。その時はとてもつらい体勢で、身をかがめるようにして、なんとか話をしたよ、、、」
彼はその様子をとても滑稽に示して見せましたが、でもエネスクへの尊敬を込めつつです、、、

ラ:あなたはいつか彼と演奏したことがありますか?

コ:いいえ、演奏したことはありませんし、彼がどう弾くのかさえ耳にしたことがありません。レコードできいたことはありますが、それはさておき、あれは個人的にも楽しい出会いでした。

「コンドラシンは語る」より ストコフスキー 2

わたしは彼とはニューヨークの家のひとつで会いました。百万長者はいつも有名人を自分のもとに集めたがります、それでそこにはわたしとテミルカーノフが招待されました。そこはストコフスキーが実際に暮らしているところでした。とても感じのよい談笑で、わたしたちはドイツ語でどうにかこうにか説明しました。音楽生活やあれこれについて質問しましたが、彼は始終何か脇をちらちらみていました。息子を待っているのだということでした。彼の家庭生活は複雑でした。すでに四番目の妻とも離婚していました。この妻との間に17歳の息子がいて、家の外でだけ彼と会えるのでした。そしてわたしのいるそこが面会の場でしたが、彼は来ないようでした。とうとう、この息子氏がヒッピー風の格好で登場しました。たくましい若者で、信じられないほどのあつかましさでした。父親は今や彼のまわりをせかせかと動き出し、一方こちらは足を伸ばして肘掛け椅子に長々と寝そべり、父親であるこの尊敬すべき白髪の美しい老人は走り回るのでした。ウィスキーを持ってくると、こちらではいらないと言います、おいジントニックを持ってきなよ、――持ってきます。ご老体は全力で要求に答えようとしました。これには気まずい印象を与えられました。わたしまで彼のことが恥かしくなりました。この若造の鼻面をぶん殴って、誰と口を利いているつもりか分からせてやりたくなったほどでした、、、

「コンドラシンは語る」より ストコフスキー 1

長老格の人の中で出会ったことがあり、演奏会もきいたのはストコフスキーです。彼がニューヨークで作られたばかりのオーケストラを指揮するのは1966年で最後でした。彼はそのときまで指揮しています――94歳です。でもいまは彼のことは耳にいたしません。
彼はベートーヴェンの交響曲第二番と自分で管弦楽編曲したムソルグスキーの「展覧会の絵」を指揮しました。わたしがリハーサルに行くと、彼はとても感じの良い人で、すぐに「suppe nach den probbe[スープでもいかがですか]」と食事に誘ってくれました、、、 自分にはリハーサルがあると話すと、初演に伺ってもよろしいですか、と関心をもってくれたようでした。リハーサルでわたしは腰を下ろしてベートーヴェンの交響曲第二番をききました。いや、違った、、、「オベロン」序曲です――見事な腕前でした。まあ、なによりもストコフスキーは絶対的権威です。彼は指揮棒を持たずにとてもそっけない動作で指揮しました。彼の腕が止まるだけで――みなは的確にその四分音符で演奏を止めます。彼は静かな声で指摘し、数字を言って、みなが見つけるのを待たずに演奏を始めます。とりわけ、もしも上手くできなかった場合はもう一度繰り返し、というように――本物の仕事でした、、、 私は、正直に言うと、噂で言われるように「指揮者一流、音楽二流」と見なしていました。必ずしもそうではなかったのです。彼は、もちろん、卓越した巨匠です。私の手元には、例えば、「ニュルンベルグ」から彼が編曲した、組曲のようなもののレコードがあります。これはワーグナー魂の業績[賜物]の観点からみて、卓越しているし技術的です。また、わたしがベートーヴェンの交響曲第二番を聞いたときは――これはとてもよく、ベートーヴェン的な力強さがあり、まったく年寄りじみていず、今日でもいきいきしたテンポで――まったく年寄りくささのないものでした。

「コンドラシンは語る」より ミケランジェリ 2

コ:わたしが彼と演奏したのはあと二作品だけですね。フランクの交響的変奏と、わたしの記憶に間違いがなければ、ベートーヴェンの協奏曲第五番です。すべてが完全に違う風で異常なほどの気品に満ちていました。タッチはまったく理想的に洗練されています。わたしはどうして彼には理想的な楽器が必要なのかが分かりました。なぜなら彼が必要とするその性能、音色、強度が得られることを自ら確信する必要があったからです。彼の音楽にたいする態度はまったくイタリア的でなく、少しも軽薄なところがありませんでした。彼が何度でも演奏会をキャンセルするのは、コンディションが不十分と感じるからですが、そのために莫大な違約金を払います。彼はまったく破産状態だったそうです。彼は――気分のしもべです。彼が弾くときは、良く演奏できるときだけです。これは彼とよく会う人たちがわたしに語ったことです。
・・・・・・・・・・・(略)

彼については他に何を話しましょうか? 一度、演奏会後にアラム・イリイチ・ハチャトリヤンが自宅にわたしと妻を招待してくれたことがあって、さらにカレンと通訳の女性もいました。豪勢なご馳走でした――ミケランジェリはちょっと力が抜けたようになっていて、まあ彼はとても無愛想、控えめで口数が少ない人でした。会話はあれこれと及び、そしてハチャトリヤンはこの先どんな夢をもっているか彼に尋ねました。彼は言います。
「わたしの夢は小さなレストランを開ければいいなということです。とても料理が好きですから。いまもしお金があれば村に小さな家を買い、テーブル四つのレストランを設えて、喜んでわたし自身でお客をもてなしますよ」
「そこにご自分の友人を招待なさることもあるでしょうか?」
「わたしに友人はいません」
彼は微笑みながらそう言いました。多分それは照れ隠しかなにか、でも、おそらくは違うのでしょう、、、

「コンドラシンは語る」より ミケランジェリ 1

二人目のピアニストは――ベネデッティ・ミケランジェリです。とりわけ言っておかなければならないのは、彼らは完全に別のタイプということです。
・・・・・・・・・・(略)
一方、ベネデッティ・ミケランジェリは彫像のように座っています。顔は石のようで、まったく表情を出しません。しかし演奏と言ったら! あのように考え抜かれた、ああした味わい。わたしたちはベートーヴェンの協奏曲第四番を演奏しました。わたしはそこで突然、半音階上で繰り返す三連音と四連音がどのように出会うのか「理解」したのです。一定数の音符をこの小節の中に敷き詰める必要があります。なんと類まれなほど磨き上げられているのでしょうか! ここに――三連音、そして四連音。完璧なまでに正確。明晰で深い意味に裏打ちされている。

彼の演奏会の準備の仕方はとても面白いものでした。わたしたちは朝にリハーサルをしました。彼はとても要求が厳しくそしてとても礼儀正しい人でした。彼は自分に何が必要なのかを正確に知っていました。一度定まったら、もうどんな言いがかりもなしです。自分だけが正しいというソリストはたまにいるのです。
・・・・・・・・・・・(略)

一方、ミケランジェリは必要なことを知っていて(ついでに言えば、リヒテルも同じです)、終わったところにはもう彼は戻りません。ところでリハーサル後、ボギノがやって来て彼らはピアノの上で何かいじりだしました。その日、舞台上の残りの作業は中止され、リハーサルは昼の1時に終わりコンサートは7時半に始まります。わたしが7時15分に来ると、彼らはまだ舞台にいて、ミケランジェリはまだ「その」音を見つけ出そうとしていますが、それは見つかりません。みな大騒ぎです。まだホテルに着替えに行かなければならないので車が待っています。最後には彼は舞台から渋々立ち去りました。大急ぎでオーケストラの用意が整えられます。10分後には彼は燕尾服であらわれ、そして神がかったように演奏しました。

これは彼が音楽のために回れ右をして「始動」できることを物語っています、つまり、音を耳にするやスイッチが入る。電光石火です。これは本当にまれな才能です。わたしはこうした才能には滅多に出会ったことがありません――例えば、ロストロポーヴィチとか、、、
・・・・・・・・・・・(略)

          

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